コズミックフロントNEXT「天文学を180度変えた男 コペルニクス」

1:天動説はなぜ1000年以上支持されてきたのか

1000年以上もの長い間地球を宇宙の中心だとする天動説が信じられてきました。その理由は一冊の本でした。完成したのは紀元2世紀。代々受け継がれ中世では天文学の教科書になっていたものです。その名は「アルマゲスト」。天動説が書かれている本です。作者は2世紀に活躍した科学者「プトレマイオス」です。

天動説の宇宙を見ていきましょう。宇宙の中心は地球です。一番内側を回るのは月です。その次が水星。そして金星・太陽と続きます。天動説はで太陽は4番目の惑星とされました。さらに火星・木星・土星の順番です。一番外側はすべての恒星が取り囲んでいるとしました。惑星は今とは違い殻のようなもので仕切られた間を動くと考えられていました。

アルマゲストの天動説では惑星のさらに複雑な動きまで説明してみせます。火星を例に見てみます。一週間ごとに火星を捉えた画像です。画面右側から進んできた火星はスピードを落としそして向きを変えます。しばらくするとまた向きを変え元の方向に進みます。よく見ると火星の大きさや明るさも変化しています。これは逆光と呼ばれおよそ2年2ヶ月に一度起きます。

この現象をアルマゲストの天動説ではどのように説明しているのでしょうか。火星は大きな殻の間を小さな円を描くように動いているとするのです。この小さな円は「周転円」と呼ばれ地球から見た火星の動きを再現できるのです。画面中央の星空に注目します。右側から進んできた火星はスピードを落として向きを変えその後また向きを変えて進みます。観測した逆光の動きとそっくりです。火星以外の惑星も逆行の動きをしています。アルマゲストの天動説ではそれぞれの惑星も同じように動かすことで説明してみせたのです。

1300年もの長きにわたり天動説が人々に信じられてきたのはアルマゲストの天動説が驚くべき精度で出来ていたこと。それが大きな理由だったのです。ところがこの天動説に果敢に挑んだ男がいました。「ニコラウス・コペルニクス」です。

2:「地動説」はどのようにして生まれてきたのか

コペルニクスの生まれ国境ポーランド北部の町「トルン」です。今から500年以上前の1473年コペルニクスはここで生まれました。その頃のトルンはヨーロッパ有数の交易都市として栄えていました。コペルニクスは当時の最先端の情報を身近に触れながら育ちます。

コペルニクスに大きな転機が訪れたのは18歳になった時叔父の薦めで聖職者の道へ進むことになったのです。当時聖職者は暦や占星術を読み解く必要がありそのために天文学の知識が不可欠でした。星に興味を持ち始めていた若きコペルニクスは天文学を本格的に学ぶ機会に巡り会うのです。

1496年に23歳になったコペルニクスは聖職者になるためボローニャ大学へ留学します。ボローニャでは大学の教授ノヴァーラの家に下宿することになります。この出会いがコペルニクスの運命を大きく変えていきます。コペルニクスはノヴァーラからある本に注目しその内容について議論を深めることを求められました。ある本とは当時天文学の教科書として使われていたものでした。紀元2世紀からこの本にある宇宙の姿は正しいとされてきました。そうあのアルマゲストです。天文学の真理とされるほどの存在になっていました。

一方でコペルニクスは天体の観測を精力的に行います。観測装置が向上し星の位置を正確に観測できるようになっていました。そしてコペルニクスはある現象に出会います。月が星を覆い隠す「星食」と呼ばれる天文現象でした。1497年3月9日一等星の一つアルデバランが月に隠れました。コペルニクスはその隠れる時間を計測し月の大きさを推定します。アルマゲストの天動説では月は地球から離れたり近づいたり。その距離の違いは最大で1.5倍もあったのです。しかしコペルニクスが実際星が隠れる時間を計算するとアルマゲストの天動説から導かれる数字よりずっと短いものでした。月は天動説が予測ほど地球に近づいていなかったのです。アルマゲストの天動説が正しければ月は倍以上大きく見えるはずでしたがそうではありませんでした。コペルニクスは天動説が違っていることに気がついたのです。1300年もの間常識とされてきた天動説にコペルニクスは疑いを持ち始めるのです。

ポーランド北部の街「リズバルク・ヴァルミンスキ」です。コペルニクスは7年にわたるイタリア留学を終え聖職者となります。1503年30歳の時この街に赴任しました。司教だった叔父の補佐役としてこの城で暮らし始めます。コペルニクスは城で最も高い44mの高さを誇る塔の頂上にあるこの窓から夜空の観測を続けていたとされています。コペルニクスは多忙な仕事の合間を縫って観測を行い他にもアルマゲストの天動説と違いがないか調べていました。そんな折珍しい天体現象に出会います。1504年7月5つの惑星が一列に並ぶ惑星大集合です。コペルニクスは五つの惑星の動きを詳細に観測。角度や方位を割り出します。そしてアルマゲストの天動説から得られる惑星の位置と比較しました。その結果も一致しなかったのです。火星は2°異なっている。土星は1.5°異なっている。コペルニクスは観測結果と天動説の予測とを緻密に比較することで火星と土星に生じたわずかな違いを見出していたのです。コペルニクスは惑星の位置を観測することで新しい説を生み出すヒントを見つけたに違いありません。

どうしてこうした違いが生まれるのか。宇宙はこんなに複雑なのか。本当はもっとシンプルなのではないか。コペルニクスは思索を始めます。まず取り組んだのは惑星が回る殻の中心を同心円になるように揃えることでした。そして他の惑星の殻の中心は太陽のところに置きます。こうすると地球以外の惑星の殻を同心円にすることができたのです。しかもこれらが太陽と一緒に地球の周りを回ればそれぞれの惑星は殻の中で小さな円を描く必要もなくなりました。彼が思い描く理想的な姿に近づいてきました。

しかしここで大きな問題に直面します。原因は火星の殻の大きさにありました。地球が宇宙の中心にありその周りに太陽が周る殻があります。この図にコペルニクスが考えた位置に火星の殻を描くと太陽の殻と重なってしまったのです。これは殻の間を惑星が動いているとする考え方ではありえないことでした。この重なりはコペルニクスの大きな悩みのタネとなりました。火星と太陽に起きた殻の重なり。惑星は殻の間を動くとすると受け入れ難い問題でした。

そしてこの時「コペルニクス的転回」が起こります。コペルニクスはこれを火星と太陽の問題ではなく地球と太陽の問題ではないかと考えるのです。そして地球中心の概念を捨て去ります。地球と太陽を入れ替えてみたところ。殻が重なる問題は解消されることが分かったのです。地球を中心に太陽が周りその周りを他の惑星が周っていたものを太陽を中心に地球を周してみたのです。すると地球は他の惑星と同じように同心円で周ります。今私たちが知っている太陽系の姿が現れたのです。コペルニクス30歳を過ぎた頃のことでした。コペルニクスのメモにある他の数字はそれぞれの惑星の太陽からの距離を割り出したものでした。現代の数字と遜色のない正確さです。コペルニクスは惑星の動きをひとつの同心円にまとめることに成功しました。誰も思いつかなかった驚くべき発想でした。これだけの大発見を黙っていられませんでした。

コペルニクスは友人に宛てて手紙を書きます。その数実に200通に及んだといいます。手紙には決定的な表現がありました。ここに地球が宇宙の中心ではなく太陽が宇宙の中心の近くにあると書かれています。太陽が宇宙の中心の近くにある、つまり地球は太陽の周りを回っているとする地動説を意味しています。コペルニクスは30代ですでに地動説は真実であるという確信を持っていたのです。ところがコペルニクスは自ら導き出した地動説の考えに長い間悩み苦しむことになります。

3:なぜ地動説はすぐに広まらなかったのか

1516年43歳になったコペルニクスはポーランド北部の町「オルシュティン」にやってきます。地域を治める城主に任命されたのです。コペルニクスはこの城で暮らしていました。地動説のことを手紙に書いてから10年ほどの月日が流れていました。しかし未だ本として出版するなど公にはしていませんでした。一方でコペルニクスは星の観測を続けることで地動説は揺るぎないものになっていきます。時代は私の地動説を必要としている。コペルニクスは地動説の本にまとめて出版することを考え始めます。

ところが大きな問題が立ちはだかります。聖書です。その中には天動説に通じる記述があったのです。しかもこの頃聖書の教えを絶対とする勢力が台頭し宗教改革を始めていました。コペルニクスは葛藤します。自分は聖職者だ。その聖職者が聖書の教えに反していいのか。しかし自分は天文学に精通し地動説には確信を持っている。二つの狭間でコペルニクスの気持ちは揺れ動きます。信念に反する行為をすることはジレンマだったはずです。片方に信仰がありもう片方には信念とした学問の真実がある。どうすればいいのでしょうか。

コペルニクスは悩みます。地動説をそのまま出せば大論争が起き異端者にされかねない。ようやく公にする覚悟を決めたのは死の間際70歳近くになった時でした。そして本として出版されます。ところがコペルニクスの本は大きな批判を受けることはありませんでした。どうしてだったのでしょうか。生まれ故郷の大学にコペルニクスの初版本が残されていました。これが1543年に出版されたコペルニクスの著書「天球の回転について」です。その中には地動説を象徴する図が書かれていました。これはコペルニクスが思い描いた太陽系です。太陽の中心とし惑星が同心円状になっている太陽系の姿です。今私たちが教科書で学ぶ太陽系です。当時世の中に混乱が起きても不思議ではなかったこの本が不問とされた理由は本の中にありました。それは本のはじめに序文として書かれた1ページほどの文章でした。そこに「仮設」の文字があります。この序文を書いたのはコペルニクスの友人でドイツ人神学者のオジアンダーです。オジアンダーはこの本が大きな抵抗を受けることを避けるため「あくまでも仮説に過ぎない」という序文に差し替えていたのです。 序文のおかげで「天球の回転」については日の目を見ることができました。そしてこの本は宇宙の真実に興味を持つヨーロッパの人々の元へ渡ることになりました。後世に活躍する多くの天文学者達にです。

コペルニクスの本は彼の死後広まっていきます。その一冊がイタリアの国立図書館に保管されていました。コペルニクスからおよそ100年後に活躍した人物が持っていたものです。本のいたるところに書き込みがされています。それを書いたのは「天文学の父」と呼ばれた男でした。本の持ち主は「ガリレオ・ガリレイ」です。イタリアで生まれ育ったガリレオはコペルニクスの地動説に強い影響を受けました。ガリレオは当時発明されたばかりの天体望遠鏡で惑星をより精密に観測。地動説が真実であることを突き止めます。晩年宗教裁判にかけられますが地動説への信念を曲げることはありませんでした。その後地動説は世界中に広まっていきます。コペルニクスが最も大切に考えていたこと。それは真実の追求だったのです。

ニコラウス・コペルニクス。彼は精密な観測と逆転の発想で地動説を生み出しました。信仰と真実の狭間で格闘を続けながらも地動説を世に送り出しました。晩年コペルニクスは天文学について次のように書き残しています。「学問の中の学問である天文学は想像も及ばぬ無常の喜びを与えてくれる。」 天文学の常識を180度変えた地動説。発想の大転換はその後も受け継がれ今も宇宙の謎を解く鍵になっているのです。

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